8 プロセスとしてのテクスト アウトライン・プロセッサーを使う2
この章には何が書かれているのか?
リライティングの続き
項目が10個と多かったBをホイスト(Hoist)する
rashita.icon最近のアウトライナーならzoomと呼ばれる機能
Bだけにして、そこに含まれるすべてのアウトラインを広げる
その後、分類を試みる
大きく三つに分け(大項目)、それぞれをさらに三つに分ける(中項目)
しばらく動かしていると、もっともらしくなってくる
ただし、大きく三つの分類はできたが、中項目は二つだけだった
が、形式だからあまり気にしない
アウトラインをもとに文章を作成しているときに間違えてしまうのは、こうしたアウトラインをもとに文章が書けると錯覚することである。余程簡単なディスコースを使っていないかぎり、アウトラインは文章の論理の要約ではない。個々では大きな文章の流れをとりあえず意味的に納まりのよいように分類しただけだ。内容の検討は行っていない。
rashita.icon「個々」は「ここ」のタイポな気がする。
引き続き、リライティングのプロセスが実施的に紹介される
内容の検討
アウトラインをすべて開く
rashita.iconおそらくこれは一番低いレベルの文は含まれていない(スクリーンショットを参考に)
必要とあればアウトラインについているドキュメントで検討しながら
rashita.iconこの記述からも上の理解が間違っていないことがうかがえる
具体的に議論が展開するのかを、一番小さな項目まで確認する
何が、流れのある議論を妨害しているのかを見つけようとする姿勢
一つの検討から中項目が新しく立つ
rashita.iconその部分だけを取り上げてみる
code:sample.txt
2.Class and the Culture of Consumption in the United States.
a) Class and Culture of Consumption
1) American Class system under the culture of consumption
ここにたくさんの項目がある
2) the ideology of American partician elites
b) the New Middle Class and the Culture of Consumption
1) The New Ethos
2) the culture of consumpiton
3) THe taste of upper class
code:sample2.txt
2.Class and the Culture of Consumption in the United States.
a) Class, Consumpition and Hegemony
1) Consumption and Hegemony
2) Class by Faul Fussell
3) Regan as a hero of American Dream
b) The American Upper Class
1) Bush as a Rich body
2) the idealogy of American patricain elites
3) THe taste of upper class
c) the New Middle Class in America
1) THe New Ethos: Consumption
2) the culture of consumption
3) The taste of upper class
rashita.icon議論がどう変化したまでは追いきれないが、アウトラインとして整ってきているのは感じる
全体に戻る
大・中・小まですべて開く
rashita.icon逆に言うと、小以下も含んでいるのがアウトラインの全体像だが、そこには文そのものは含まれていない
項目の整理・統合が行われていく
その結果、何をどのように書くのかが、アウトラインにすべて組み込まれていることになる
以上のようなプロセス・ライティングを可能にし、議論と文章に古典的な形式を与えてくれる装置がアウトライン・プロセッサーである。
カオス→構造を備えたコスモスという過程はゆっくりと複雑な動きをしながら進んでいく ソクラテス・メソッドは気長にやると有効
ところで、こうして
rashita.iconこれがブリッジの部分
本書がここまで否定的に語ってきた古典主義的なよい文章が持つ形式と、ここまでのアウトライン形式とは何が違うのか?それが以下で検討されるという予告部分
大文字のライティング
経験的なものを超えた(形而上学的な・アプリオリな)意味内容。何かを決定的に根拠づけるもの
ただのライティングと大文字のライティングがある
大文字のライティングは大文字の作家(大作家)が書いていたからそう呼ばれた
大文字の作家は特定の作品を書いたからそうなったのではなく、社会の中で固有の価値観を維持する文化的役割を担わされた存在であり、そうした政治的状況の中での出来事にすぎない
そうなると、大作家を大作家足らしめる絶対的根拠(超越論的シニフィエ)は存在しないということになる 権威(authority)の中に作家(author)があり、二つは結びついている
しかし、本当に現代において権威はなくなっているのか?
脱構築では、「読み」を通して書かれたものから思想を解体していく
これを書く作業に用いるとどうなるか?
権威づけられたものを解体する力を持つ脱構築の「読み」は、不十分なディスコースしかもたないライティングに適用すると強力すぎてあっという間に解体してしまう
「形式」を重視する視点の必要性はここにあると著者
大文字のライティング、西洋中心主義的な文章には無視できない論理的形式があり、それがライティングを解体させず、保持(あるいはコンポジット)させる可能性をはらむ、という主張
rashita.iconおそらくデリダは、ライティングにすら脱構築を用いたことで中期以降は「論文」という形式から逸脱したものを書いていったのだろう。つまり、デリダは徹底しており、著者は踏みとどまっているという印象。
rashita.iconライティングに脱構築を適用するとどうなるのか、という観点は今後掘り下げる価値がある問いに思える。
柄谷行人(からたにこうじん)と磯崎新(いそざきあらた)の対談
論理的形式は西洋中心主義の産物ではあるが、それを攻撃し解体しようとする言質もまた否応無しに論理的形式に成らざるを得ない
柄谷によればイデアは超越論的シニフィエとは違う。幾何学や建築から来ている
誰でも点は書けるが、幾何学的な点は書けない。
幾何学的な広がり(面積)を持たないが、私たちが点を書くときには必ず広がりが生まれるから
よって、その「点」は、常に形式的なものに留まる。それがイデア=形式
自然に負っていないからこそ(面積のない点は自然にはありえない)、点という概念はイデア論の基盤に成りえた
自然(じねん)にまかせておけば精神なんてありえない
rashita.icon幾何学における指摘は理解できるが、なぜそれが建築にも敷延できるのかが不明
rashita.iconただ、建築家が知の形式的整理に取り組む例が多いという点があり、その関連性を探ってみるのは面白い
たとえば、クリストファー・アレグザンダーはパタン・ランゲージを提案しり、リチャード・ワーマンは、情報建築を提案したりしている 大文字のライティングには、超越論的シニフィエが備わっているだけでなく、イデア=形式も備わっている
自然なままでは、このイデア=形式は出てこない
形式を求める態度は反動的だが、しかし
アメリカの一部の脱構築者は大文字のライティングのギリシャ古典につながる超越論的なシニフィエを否定するが、ローカルな(アメリカの)ライティングが解体することを避けるために、新たな超越論的シニフィエを忍び込ませている
結果、形式のない超越論的シニフィエへとたどり着く
ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク、ヘンリー・ルイス・ゲイツ、ヒューストン・ベイカー(ヒューストン・A・ベイカー・ジュニア)の仕事ぶり
アメリカで伝統とされるカノンへの抵抗としての脱構築
ポストモダンにおける問題
形式の圧倒的な強力さの肯定と、
それを混乱させたいという自分の感情
が激突してしまう
日本における日常生活のレベルでのポストモダン的意識
良い・悪いを対立させる見方を疑うことは、社会の仕組みへの挑戦であり、それがポストモダン的なスタンスである
近代的組織で一日を終えた後の行動
おしゃれなカフェバーで「記号の戯れ」
赤ちょうちんでくつろぐ「文化帝国主義」
rashita.iconこの段階で、これらが何を意味しているのかわからなくても、まあ続きで説明してくれるだろうという心積もりで読む
「記号の戯れ」
軽い存在、中心ではなく周辺で戯れる
一方でそれは、仕事と遊びの二項対立を何も崩してはいない
中心の正統性は保持され続けている
二項対立の構造そのものはそこにある。そこに向かう批判そのものが回避されている状態
rashita.iconここまでで何度か登場したロジックと同じ
二項対立が、あるものを劣性におくことで、残りのものを優性として扱う手つきだとしたら、ブルジョワ・リベラリズムにおいては、劣性とされたものにも価値を見出し受容する態度と言える。
しかし、その場合においては、劣性とされたものは「消費」されてしまうだけに終わる。
二項対立の構造そのものにメスを入れることができていない
つまりポストモダニズムのディスコースとして脱構築を使い、形而上学的二項対立の偽りの構造を指摘すれば、自分はその構造から自由になると考えることが間違いないのだ。劣性にある項目に新たに価値付与しても二項対立の構造そのものは変化しないのである。
クリストファー・ノリス
二つの脱構築を区別を主張
上記のような批判的水準に留まっている脱構築的思考
「創造的な」脱構築
二項対立は我々の思考の内部に宿っているのか?
rashita.iconこの「我々」が人類全般を指すのか、それとも日本人を指すのか
我々の存在の在り方は分節されていない
rashita.icon分けられていない、ということ。区別がない。
西洋思想では「光あれ!」によって、闇のカオスから光のコスモスが生まれる
無差別的・無分別的な世界が、「光と闇」に分節される
二項対立の始まり
『始まりの現象 〈新装版〉: 意図と方法 (叢書・ウニベルシタス 358) 』エドワード・W. サイード
始まりに存在するある種の意図にもとづいて作文を行う過程の中の構造体として構造体として、つまり構造を現実の存在とする過程における構造体としてテキストは理解すべきものである」
ライティングは権威を確立しようとする欲望に始まり、それを完遂する方法は構造の確立
こう考えてみると、西洋的ロゴス的差別性とは縁のない日常世界に我々は生きているようだ
rashita.iconこの我々は、西洋思想に触れていない日本人ということなのか、「ある種の意図」を持たない日常生活を送る人なのかが曖昧
我々のテキストは構造体としてではなく過程(プロセス)として存在している
ポストモダニズムは、そうした非構造的な世界の存在を認めた
西洋中心主義の超越と、近代の超越が重なり、日常生活の肯定へと向かうとされるが、これは文化多元論の仮面をかぶった、文化帝国主義
「美しい日本」はキッチュなジャパネスクで中央の正統性が疑われないままに、その周辺で多様な文化形式がパフォーマンスしているに過ぎない
問題はどこにあるのか?
脱構築が「言語の意味分節的システムの枠組みの上にきちんと区分けされ、整頓されている存在構造を解体する」(井筒俊彦)ものだとして、解体すべき体系を私たちは持っているのか? コンストラクティブ、コンストラティブな行為を行う自分に批判的な態度になること
その点が、デリダが執拗に西洋文化を脱構築していくこから学べるのではないか
我々にとってのよい文章
rashita.iconここまでの議論を踏まえれば、我々は特に現代に日本人を指しているのだと思われる
ギリシャ古典主義を操作して生まれる論理形式の安定性を守るためのものではなく、構造を作り出し、破壊するせめぎあいのなかに現れる、複数の文化がぶつかりあう世界を見せてくれるもの
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